Good ways to use computers in teaching (1985, rev. 2002; text in Japanese)

教育でのコンピュータの上手な使用法

J. Marshall Unger

(当時)Department of East Asian Languages and Literatures

University of Hawaii

©1985, 2002  J. Marshall Unger

 

これは、1985年6月12日~14日に南山大学で開かれた日本語教育国際シンポジウムの報告書に掲載されたもの(131~136ページ)に筆を加えたものです。

 

 

今日、南山大学に御招待くださいまして、誠に有難うございます。マーチン教授も水谷教授も恩師として尊敬していますから、同じシンポジウムで同じ語学のテーマについて講演させていただくのは、私にとって大変な名誉でございます。私は、約10年ぐらいしか日本語を教えておりませんので、あまり大きいことは言えませんし、それに、日本語で話しておりますから、不明なところが若干あるかもしれませんので、前もってお詫び申し上げます。

さて、1984年10月に発行された「日本語教育」54号は「コンピュータと日本語教育」の特集でしたが、その中で私は大阪府立大学の樺島忠夫教授が特に現状を見抜いていると思いました。日本のコンピュータによる教育のソフトウェア開発がどうして遅れているかというと、樺島教授によれば、「他からの影響を受けることがない」根本的な原因が二つあるからです。その一つは、「国語教育、日本語教育にたずさわる者の側から、コンピュータを教育・学習にどう使うかの具体案が提出されていない」とのことです。もう一つは、「現在の機器・ソフトが日々進化している状態では、せっかく予算を使って機器・ソフトを備えても、もっとよいものがすぐに現れないとは限らないという不安があって、コンピュータ利用に踏み切らない」とのことです。この第一については、あとで私の具体案を、第二については、終わりの方で私論を披露したいと思います。

私は、1977年からハワイ大学で日本語語学ソフトウェアの開発をしてきましたが、本来の専門は日本語の歴史的言語学ですから、日本語の起源について講義を出すこともあります。日本語の起源といえば、日本の一般の人も高い関心を持っていますが、その研究はなかなか難しくて複雑です。いろいろな論が出ていますから、私は学生に、まだ不明なことが多い点を強調し、各論を分析して長所と短所を指摘します。まだわからないことが多いわけですから、この論が正しいとか、あの論がまちがっているということではなく、研究法の基本をしっかり教えます。講義のあとで、「でも、先生、どの論が正しいのですか。」と聞いてくるのは、いつも日本からの留学生です。この質問は、日本人の教育観をよく反映していると思います。

もちろん、日本人ばかりでなく、どこの国の学生も試験の前に先生の意見を聞くことがあるはずです。アメリカ人のばあい、先生に対してある種の尊敬の気持ちを持っているときに聞くでしょう。アメリカの学校では、自分自身の判断力を磨かなければ、せっかくの知識も無駄になる、と教えますから、知識は、いわば付け足しです。それにひきかえ、日本の学校では、個性を生かすことを躊躇する傾向があります。日本の学生は、先生にわからないことはない、問題の正解が二つ以上あるはずはないと思い、先生が「正解」を教えないときは、先生が何か学生に隠しているに違いないと思うようです。この態度を、ここで「唯一正解主義」と呼ぶことにします。

これに関連した話が、もう一つあります。東京に住んでいる、日本人の友人から聞いたエピソードです。娘さんが幼稚園の入園試験を受けたとき、先生が黒板に鼻がない顔を書いて、子供に「何がないか」と聞きました。その子供が素直に「体がない」と答えたら、先生は「そんな答えは無い」と言って×としたそうです。この質問は、子供の言語能力を計るためだったようですが、実は子供の答え方を確かめただけでした。予備校へ行っていなければ、正しい解答がわかるはずがないのです。こういう質問は、あとで説明するように、役に立つばあいもありますが、このような問答は、謎解きというべきでしょう。これも、やはり、唯一正解主義の表れだと思います。

この話は、コンピュータによる教育と関係なさそうに思われるかもしれませんが、実は、日本語教育用ソフトは、しばしばこのような日本人の教育への態度を反映していることがあるのです。

さて、先ほど、鼻がない顔の絵も教育に役立つばあいがあると言いましたので、まずそれを考えてみることにします。コンピュータを使った、初歩の語学のレッスンでは、端末機の画面に顔全体を出したあと、鼻か目か耳を消してみせ、学習者に「今、何がないか」と聞けばどうでしょう。単語だけでなく、完全な文章を書くように指示すれば、文法のパターンを調べることができます。絵の消す部分を変えていき、それぞれの単語の練習をさせることもできます。学習者に、問題をアットランダムに選ばせたり、学習者の誤りの原因に応じた適切なフィードバックを与えたり、よくわかっていないところを復習させたりすることは、ソフトウェアの作りようによってできます。もちろん、鼻や顔よりもっと複雑なシチュエーションを使うこともできます。つまり、あの幼稚園入園試験の質問の仕方は、言語能力のテストとしては不適当でしたが、少し変えれば、コンピュータによる教育でも上手に使えるわけです。ここで注意すべき点は、絵全体を見せてから一部を消す、というところです。そうしなかったら、この問題はまだ謎解きで、唯一正解主義に過ぎません。一方、いくつもの答えから一つを選択させるやり方などは、紙でするテストに便利かもしれませんが、コンピュータによる教育の中心にするのは感心しません。しかし、今のところ、私が見た、日本語教育用のソフトやシステムは、ほとんど全部、この程度のものばかりです。今では優れたハードウェアが開発されていますから、ソフトウェアが弱いということは、皆さんには驚きかもしれません。それで、今から少し、日本語のソフトウェアをどのように改良すればいいか、述べることにします。

ここで、数学でよく用いられる、三次元のグラフを想像してください。教育法の評価は、簡単に数字に置き換えられないのですが、一応、それを空間に設定してみます。X軸を「教材と教育法の融通度」とし、Y軸を「学習者の自由度」とし、Z軸を「学習者と教師のコミュニケーションの多様さの度合い」とします。そうすると、X軸とY軸とZ軸の交わったあたりは、ドリルブックに当たります。つまり、ドリルブックは、このグラフで、ゼロに近いわけです。

なぜかというと、まず、ドリルブックは、ほとんど選択式や穴埋め式問題ですから、作成の融通性がほとんどありません。なお、選択式問題は、学習者に、わざわざまちがいを見せるので、何かを教えるというより、学習者を混乱させるものですし、穴埋め式問題は、決まった解答を暗記しさえすれば、点が取れるわけですから、学習者の創造力をほとんど伸ばさないものです。その上、こういう問題の採点は、○×ですから、ただ、学習者の欠点を指摘して、罰するだけです。

次に、普通のドリルブックは、使い方が自由だとはいえません。学習者は、解答を自分の力で考えたり自分のことばで表したりすることを習わないからです。しかも、復習したいとき、同じ問題を繰り返すほかありませんし、うまく飛ばしても行けません。プログラム学習は、この点で、ドリルブックよりましだといわれていますが、あまり進歩だとはいえません。

第三に、学習者と教師の間のコミュニケーションですが、ドリルブックは、会話的コミュニケーションがないのはもちろん、製作者は、学習者からのフィードバックがめったにないので、教材の修正を怠りがちです。ドリルブックは、学習者が一人で使うものですから、学習者同士のコミュニケーションもありません。

したがって、ドリルブックをこのグラフの原点に据えるのも、無理がないわけです。コンピュータのような、新しいテクノロジーを導入すれば、このゼロ点からどういうように進むことができるでしょうか。

X軸、つまり、プログラムの融通度に関しては、すでに幼稚園の話のところで具体的な例をあげて説明したように、コンピュータでは、短い文章で答えさせることがあります。学習者に、複数の答えから選択させず自由に答えさせれば、学習者は惑わされないでしょうし、穴埋め式問題のときの窮屈さからほとんど開放されるはずです。ソフトウェアのレベルでは、もちろんまだ選択式・穴埋め式構造が残っているわけですが、学習者は、それに気づきません。そのほか、学習者がやりそうなまちがいを予想して、できるだけ役立つフィードバックを用意すれば、○×採点の弊害をかなり避けることができます。つまり、まちがいがあると、コンピュータは、学習者が、問題自体を誤解したか、答えるとき適切なことばが見つけられなかったか、文法の点で混乱したかなどを判断し、判定結果を学習者に示し、解答を修正させることができます。それをしなかったら、学習者は、本当の意味で、習っているとはいえません。

次に、Y軸、つまり、学習者の自由度ですが、普通のプログラム学習でできることは、もちろんコンピュータ上でもできます。つまり、学習者が、マイペースで進めるようにできますし、教室の中のような緊張感なしに本人が難しいと思う部分を何度も練習できるようにできます。しかし、コンピュータのばあい、それだけではありません。多くの科目では、同じことを繰り返さず、毎回少し違った問題を出すこともできます。問題の順序やレベルをある程度まで学習者に決めさせるようにすることも、別に難しくありません。学習者のほうが質問を入力して、コンピュータに答えさせる、というパターンも可能です。また、学習者は、解答する前に何かヒントなどがもらいたいと思えば、コンピュータに頼めます。

最後に、Z軸、つまり、コミュニケーションの多様さは、コンピュータの最も強いところだといってもいいでしょう。日本のコンピュータによる教育は、現在のところ、だいたいパソコンによって行われていて、ネットワーク通信は、まだ、ニューメディアに関する本に出ている程度です。しかし、ネットワーク通信は、アメリカの教育のためのコンピュータの一番大切なところとなっています。連絡帳・伝言板・回覧板・落書帳として使うことができるネットワークは、それ自体が大学の町の雰囲気を持っています。ネットワークがあれば、教師も学習者も、自作のソフトウェアをほかのユーザーのと交換するなど、無線のハムのような社会を築けます。

まとめていえば、コンピュータを利用すると、教授法・教材の融通度、学習者の自由度、コミュニケーションの多様さの度合いを一挙に高めることができます。ですから、教育のためのコンピュータの本当の利点は、教師を反復作業から解放したり、教師が質を落とさずにもっと多くの学習者を指導したり、教育を年齢や体の状態に関係なくすべての人に与えたりできるところにあります。コンピュータ自体が、革新的な新教授法を創造するとか、教職を奪うとか、どの学習者も天才にする、というようなことは考えられません。これを忘れると、せっかくのコンピュータ・システムも無駄使いになる危険があります。

最近は、日本語ワープロを日本語教育に使う傾向がありますが、これはやはり危険を伴うのではないかと思います。第一に、初歩の学習者には、向きません。初歩の学習者には、文法と発音の習得が一番大切だからです。第二に、中級の学習者にも、そんなに有効ではありません。仮名かローマ字を入力してから漢字が出るので、練習になっても本当の知識習得にはなりません。第三に、上級の学習者用としても、欠点があります。漢字の使い過ぎを助長して、いい文を作るコツを全然教えないからです。(これがワープロとコンピュータの相違をよく示しています。つまり、本当のコンピュータなら、システムのソフトウェアにも手を加えることができるからです。)最後に、一番重要な点かもしれませんが、ワープロ打ちは、教師にも学習者にも一番退屈な、一斉授業のときの反復練習と何ら変わらないから、教育の質の向上にあまり貢献しないのです。一口で言えば、ワープロは書くための道具に過ぎないわけです。

それでは、現在のワープロに欠点があるというのならこれからのいわゆる「人工知能」のソフトウェアを使えばいい、という意見がありますが、これはどうでしょうか。コンピュータは、伝統的な教材より、すばらしく進んでいますが、上で申し上げたようなプログラミングのテクニックを使うには、現在のソフトウェアの能力でも充分です。実は、アメリカではもうできているのです。第五世代コンピュータの開発を待つ必要はいっさいありません。「人工知能」は、疑わしい前提に基づいているから、結局成功しない可能性が高い、と私は思います。

そういえば、海外では「人工知能」の研究を厳しく批判している学者が少なくありません。それにもかかわらず通産省がこういうような研究に全力を投入している理由はちょっと神秘です。私は、今この点を研究しているところですが、まだ結論に至っていません。しかし、漢字かな交じり文の入力をたやすくしたいというのがその目的の一つではないでしょうか。日本人の中に現在、思考の速度でキーを打つ人が非常に少ないからといって、コンピュータを全然利用できないとはいえません。とはいえ、ばあいによっては困るはずです。その一つの分野が、コンピュータによる教育です。要するに、ブラインド・タッチ・タイプができなければ、特にネットワークの力を充分に利用できないわけです。しかし、日本ではブラインド・タッチのための統一がないのです。これが樺島教授が指摘した「不安」の根本だろうと思います。

やはり、日本でのコンピュータによる教育の最大問題は、漢字入力に違いありません。したがって、日本語の教育にコンピュータが使いたければ、漢字入力の問題に取り組まなければなりません。これについて、結論を二つ述べたいと思います。

まず、外国人向けの日本語ソフトウェアでは、答えはローマ字だけですむケースが多いので、漢字を強調し過ぎてはいけないということです。相当上達した学習者に漢字それ自体を教える以外は、漢字入力はいっさい要りません。しかも、文法などの問題では、学習者に日本語のワープロのように解答させれば、間違いがあるばあい、その原因がはっきりしませんし、学習者の時間の無駄使いにもなります。あくまでも漢字を打てと主張したら、結果として「日本語」の代わりに「ワープロの操作」を教えることになるのです。

もう一つの結論は、日本人向けの教育でも、ローマ字は重要な役割を果たすことができるということです。漢字のデータは入力・整理・検索がしにくいですが、そうかといって、仮名だけでタイプするキーボードは、楽に打つにはキー数が多過ぎるか、そうでなければキー配列が複雑になってしまうから、仮名での入力は必然的に非能率です。(この点は、東京大学理学部の山田尚勇ひさお教授の昭和55年の有名な論文で明らかです。)したがって、漢字かな交じり文の出力が絶対に必要であるばあいを除いて、データをローマ字で入力してそのまま処理したほうが、簡単で安くつきます。

言い換えれば、将来、日本人はコンピュータのための表記法として、漢字と仮名にローマ字を加えたほうがいいと思います。日本語のデータをローマ字で書いても相変わらず日本語ですから、漢字さえ使わなければ、今すぐにでも、英語などと同じ速度で教育のためにニューメディアやコンピュータが利用できるのです。つまり、障害があるといえば、それは唯一正解主義の精神なのです。

ご静聴ありがとうございました。

 

Last Updated 18 February 2009 by J. Marshall Unger